英語と海外生活と最初の結婚

ビジネススクールへの進学

中学校3年生になり、高校進学に向けて、先生と生徒たちが進路相談を始める頃。母は実家の食堂を手伝えと、私の高校への進学を認めてくれませんでした。当時でさえ、高校に進学するのは当たり前の時代だったので、私は母に土下座をしてお願いしました。すると、母は「夜間の定時制学校なら通ってもいい」と言いました。

しかし一つ年上の姉は、高校の普通科に通っていました。しかも成績があまりよくなかったために、高いお金を払って私立へ通わせてもらっていたのです。そういう経緯を見ていただけに、それはあまりに不公平だ、と、その時ばかりは私も声を上げました。

母は「親にたてつくつもりか?」と息巻き、しばらくの間、押し問答が続きましたが、最終的に父親が事の次第に気づき、母を説得してくれたのでしょう。「授業が終わったら、すぐに家に帰ってきて、店を手伝うこと」という条件付きで、何とか普通科の高校へ進学することを許可してくれたのです。

そんなわけで、高校での3年間は、毎日勉強と家の食堂の手伝いに明け暮れて過ごしました。そして高校卒業後は、英語中心のビジネススクールに通うことになりました。

本当は、4年制の英大か美大に進学したかったのですが、高校進学時の出来事から、母がとても許してくれないだろうと分かっていたので、2年でいろいろな資格が取れ、就職に直結するビジネススクールを選んだのです。

そしてその2年間で、英語検定、タイプ検定、秘書検定、商業英語検定など、多くの資格を取りました。英検の準1級に合格したのも、この頃です。

宗教を勉強していたことで、かなり良くなってはいたものの、私にはその時もまだ対人恐怖症が残っていました。そこから来る、社会に出て就職することの恐怖もありました。しかしそれにも増して、早く家から出たい、自由になりたい、という思いがあったのです。そしてそのためには、即戦力となる資格が必要だったのです。

輝く未来は来なかった

そうして私は、ビジネススクールを首席で卒業しました。そして大好きな本に関わる仕事をと、応募した出版社への内定も決まり、これからが私の人生の本当のスタートだと、意気揚々としていました。

ところが、実際にその出版社で働きだすと、まったく予期しなかったことが待ち受けていたのです。

事前に説明を受けていた仕事内容と、実際の仕事が、180度違っていたのです。事前での説明では、出版に関わる原稿の編集作業をしていただきます、ということだったのですが、実際は会社案内や商品パンフレットの注文を取る、「飛び込み営業」でした。編集の「へ」の字もない仕事内容だったのです。

対人恐怖症のあった私にとっては、営業ほど畑違いの、しかも自分の希望や適合とはほど遠い職種はありませんでした。ですので、就職活動をしていた際も、営業職は目を付けもせず、はなから外していたのです。

私は事前の説明と現実との違いに愕然としながらも、それでもせっかく仕事が決まったのだから、と頑張ることに決めました。しかしその決心が、それからの地獄の日々の始まりとなったのです。

まるで何かの特訓をしたのかと思うぐらい、初日ですでに足がパンパンになり、靴ずれができ、筋肉痛で動けなくなるほどでした。それが来る日も来る日も、朝から晩まで続きました。

たいていの会社が午後5時ごろまでなので、そのころになるとやっと私も会社に帰れるのですが、会社に帰ってきてから、その日の営業内容の報告レポートを作成し、明日出向く会社の下調べをしなければなりません。またそれに加えて、会社案内やパンフレットの仕事が決まれば、その会社への取材のアポや、取材した内容のレポートも作成しないといけませんでした。そうして、気が付けば、連日、終電で急いで家に帰る・・・という状況になっていました。

そんな生活が1か月も続くころ、私はまるで廃人のようになっていました。終電で家に帰って、簡単な食事をすませ、お風呂に入って寝床につくころには、すでに午前2時。翌朝7時前には起きて、出社する支度をしなければなりません。毎朝ぼーっとした頭で、つり革につかまりながら、うたた寝をしてしまう・・・。そんな状態でした。ある日、会社のトイレで鏡に写った顔を見てびっくりしました。まるで死人のような顔だったからです。顔色はどす黒く、目も死んだ魚のようになっていたのです。

また、せっかく就職して家を出ることを考えていたのにも関わらず、外回りの仕事のためにお弁当を持っていけず、日々のランチ代や夕食代もかさんで、思うように貯金もできませんでした。重労働のわりに安月給で、週に80時間ほど働いていたのですが、残業代もまったく支払われませんでした。

私は就職する際に、せめて私の興味のある分野で仕事がしたいと思っていました。そしてその仕事に打ち込むことが、対人恐怖症の、唯一の救いになると考えていたのです。しかし蓋を開けてみれば、まったく興味のない分野どころか、一番恐れていた職種に配属していたのです。

それから間もなく、私はその会社を退職しました。後悔の気持ちは、まったくありませんでした。やれるだけのことはやった、という自負があったからです。むしろ今では、初日で辞めておけば良かったと、後悔をするぐらいです。

しかし、このような会社に勤めることになったのは、やはり意味があったことなのだと思います。それは自分の不安が実現したとも言えますし、また私の対人恐怖症を克服するための、営業職という配置だったのかもしれません。しかし私が今、一番しっくりくるのは、このことで自分を大切にする、ということの大切さを教わったのではないかということです。

市役所勤めとなる

その後、いろいろな資格を取ったにもかかわらず、これぞという仕事に出会えず、面接を受けても受からない状態が続きました。そうしている間、母親からは「仕事が見つからないんだったら、家の店を手伝え」と言われ、いつしか、食堂での勤務に戻っている自分がいました。

そんな中、

「今、市役所の固定資産税課で、仕事の空きがあるそうなんや。やってみるか?」

と父親が声をかけてきました。何でも普段から懇意にしている市長さんからの情報ということでした。私は一も二もなく、すぐに面接を取り付けました。

そうしてその後、市役所での勤務が始まりました。市役所では、同じ年ごろの青年部のメンバーと仲良くなりました。定期的にスキー旅行をしたり、音楽好きなメンバーで集まってバンドを組んだり、仕事場でありながら、どこかクラブ活動のような、とても楽しい時期を過ごすことができました。

また、私よりも年上の先輩たちからは可愛がられ、いつもランチをおごってくださったり、週末に映画やハイキングなどにも誘ってくださいました。皆、私にとても親切にしてくれ、私は社会の中で初めて、人の暖かさというものを感じました。そうして私の最初の勤務先でのトラウマが拭われていったのです。

そのころから、人を信じるということができ始めたような気がします。

初めての海外旅行

私にとって初めての海外旅行は、ビジネススクールの卒業旅行での、グアムでした。初めての海外。パスポートを取ったり、日本円をアメリカドルに両替したりしながら、私はワクワクする気持ちで一杯になっていました。

そしてグアムでは、英語圏なので当然ですが、サインボードや店員さんなど、どこを見渡しても全てが英語で、とても新鮮に感じました。

グアムに来るまで、私には一つの不安がありました。それは英語を使って外国人と上手く交流できるのだろうか?ということでした。今まで海外文通を通して、読み書きは問題なくできるようになっていたのですが、やはり日本というあまり外国人と接する機会のない国に生まれ育っていたせいで、聞く話すが苦手だったのです。そうして不安を抱えながらのグアム旅行でしたが、現地の人との会話も問題なくでき、ほっとしたと同時に、それがまた自分への自信ともなっていきました。

それから1年後、今度はカリフォルニアのオレンジ・カウンティー(OC)に、友人を訪ねて行くことになるのですが、その時も1週間、その友人のホームステイ先に一緒に泊めていただいて、とても良い経験をしました。ホームステイ先のお母さんからも「あなた、英語はどこで習ったの?とても上手ね。」と言われたことが、今でも嬉しい思い出になっています。

そしてまた、その1年後、今度は1か月半、カリフォルニアにホームステイをすることになります。そうして私は、どんどんと海外での英語での生活に親しんでいったのでした。

最初の結婚

その後、市役所での仕事が打ち切りとなり、私は会社での仕事を見つけ、いわゆるOL生活を送っていました。そしてやっと自立して家を出て、一人暮らしをしたり、当時お付き合いしていた人と一緒に一部屋のアパートで暮らすようになりました。その人とは4年弱ほどお付き合いしたのですが、浮気性という性格があり、最終的に私から別れを切り出しました。

そうして間もなく、両親の食堂でお客さんとして出会った人と付き合うようになりました。私はそれまでも何人かの方とお付き合いしていたのですが、父親がヤクザと分かると、敬遠し始める・・・というパターンが多く、このまま結婚はできないのかな、と思っていました。かといって、父親のことは大好きだったので、父を恨むということはなく、むしろ父がヤクザだからといって、尻尾を巻いて逃げていくような人はこちらから願い下げだと思っていました。

しかしこの彼は、今までの人とは違い、初めから堂々としていました。そんな態度に惹かれたのだと思いますが、私はお付き合いを初めて、まだ1年もたたないうちにその彼と結婚しました。

しかし今度は、私の父親のほうが、私の結婚を反対する番でした。父親は、挨拶に来た彼が家を去るなり、「あいつには嫁にやらん!」と言い、「もしどうしてもと言うなら、家から出ていけ!」と声を荒げました。

今から思えば、父は、彼がどういう性格かを最初から見抜いていたのでしょう。でも私には優しい彼でしたので、なぜ父が反対するのか理由が分からず、私は彼と二人でこれからの人生を築いていくべく、後ろ髪を引かれながらも、家を出て彼の実家で暮らし始めました。

突然、ワーホリでカナダに

その間も、嫁姑問題など、いろいろとあったのですが、約半年後、私たちはカナダのバンクーバーに飛んでいました。1年間のワーキングホリデーに参加するためです。

ワーキングホリデー(通称ワーホリ)とは、日本がカナダを始め、いくつかの国と提携を結んでいるプログラムで、現地で働いてお給料をいただきながら暮らせるというものです。英語習得や文化の違いを学ぶにはもってこいのこのプログラムについては、私も以前から彼に話していました。

それなら新婚旅行代わりに、カナダで暮らそうよ、と言ってくれたのも彼でした。「長い人生の1年ぐらい、どうってことない。俺も会社を辞めて、一緒に出る準備をするよ。できるときにやりたいことをやって、後悔を残さんほうがいい。」と・・・。

そうして私たちは、ワーキングホリデープログラムから斡旋された、ノースバンクーバーの香港人家庭にホームステイすることになりました。最初は右も左も分からないだろうからということで、1か月間だけ、現地の語学学校へ通いました。クラス分けテストでは、メキシコ、スイス、ドイツなど、各国から生徒が集まってきていました。私はレベル10のうち、レベル5でしたが、ほとんどの生徒がレベル1~3でした。

そしてカナダでの生活が始まりました。香港人のファミリーはとても親切で、週末になると私たちをレストランに連れていってくれたり、家族での集まりにも一緒に参加させてくれました。彼女は元外交官の妻だったそうで、世界各国を住み渡り、日本にも2年ほど住んでいたことがあるそうです。そして離婚後も、前夫からの仕送りで悠々自適に暮らしているということでした。家も数軒持っていて、普段は株のトレードの仕事をしていました。当時住んでいた家もとても大きく、私たちはベースメントの一番大きな部屋を与えらえていたのですが、ゆうに30畳はあったかと思います。私たちの部屋以外にも、ベースメントには他に2部屋あり、それぞれの部屋には韓国人学生が住んでいました。

当時の私(右)と、ホストマザーの娘、お手伝いさん

そして1か月後、私は地元のカフェでウェイトレスの仕事が決まり、またその後、当時の主人にも、お豆腐やさんで仕事が決まったのでした。私たちは幸先のよいカナダ生活の出だしに、ワクワクしていました。

ハプニングに見舞われて

その後、ウェイトレスとして数か月働いていたのですが、どういうわけか体調が悪く、体のだるい日が続きました。そのうちに、食欲はあっても、胸がむかついて食べれないという状態になりました。それは、まさかの妊娠でした。

それでも頑張って仕事に出ていたのですが、不運にも勤務先はカフェでしたので、どうしても食べ物の匂いが鼻につき、吐き気でトイレに駆け込む・・・ということが続きました。私のつわりは、とても酷いもので、吐き気だけではなく、食事ものどを通らず、私はみるみる痩せていきました。

それまでは、病院に行きたくても、保険がないので、行くのを躊躇していたのですが、そうも言ってられません。このまま何も食べられないと、お腹の赤ちゃんに栄養が行きわたらないのではないか、という心配が大きくなってきたのです。私は意を決して病院に行きました。結局は、妊娠していたら何の薬も出せないということで、何も処置はされなかったのですが、その診察代だけで当時のお金で600ドルほとかかり、私たちの生活はたちまち行き詰ってしまいました。

そんなとき、最初の前夫の暴力が出たのです。それは私があまりにもつわりがきつく、仕事を休んだ日のことでした。彼も突然の私の妊娠や、海外での慣れない仕事、英語ができないことなどでストレスがあったのだと思います。今日は仕事に行けないと言うなり、いきなり、私のお腹を蹴ったのです。そしてなおも私につかみかかってくる前夫を止めてくれたのが、同じ家にホームステイしていた韓国人の男の子でした。

香港人のホストマザーも、その前夫の荒れように驚き、私に「いったん日本に帰って、またあなただけこっちに戻ってきなさい。お腹の子供はこちらで産んだらいい。私たちも面倒みるから。そしてあなたはこちらで住んで、仕事をしながら子育てをしたらいい。」と言ってくれました。「とにかく、暴力をふるう人は一生変わらない。悪いことは言わないから、日本にいったん帰って、離婚手続きをして、あなただけこちらに戻ってきなさい。」と・・・。

そしてその翌月、私たちは日本に帰国しました。前夫の収入だけでは、家賃を払うのが精一杯でしたし、またこれからどんどん大きくなるお腹の子供のことも心配でした。カナダでは医療が受けられない以上、日本に帰るよりほかありません。

かといって、ホストマザーが提案してくれたように、前夫と離婚して、私だけカナダに戻ってくるというつもりもありませんでした。ホストマザーは最後まで心配してくださっていましたが、私の夢が、暖かい家庭を築くことだったからです。私にとって、一度結婚した以上、離婚はあり得ないことでした。

 

プロフィール⑤に続く⇒結婚後も続く苦難、そして一筋の光

私のプロフィール①⇒何もかも人と違っていた私の半生

私のプロフィール②⇒不思議な世界に住んでいた幼少時代

私のプロフィール③⇒「火付け(パイロキネシス)」と言われた青年期

私のプロフィール⑥⇒アメリカでの人生、再スタート!

私のセッションについてはこちら⇒実際の生活に役立つセッション

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