結婚後も続く苦難、そして一筋の光

借家に引っ越し

カナダのワーキングホリデーから日本に戻ってきて、私は元夫と古家を借りて住むことにしました。元夫の実家では、いつも開いている裏口から、いつしか野良猫が入ってきて、まるで猫屋敷のようになっていたからです。こんな環境では、赤ちゃんを育てるのは不衛生だということで、急遽、住処を探すことになったのでした。

しかしカナダから帰ってきたばかりで、貯金はゼロ。厳しい条件の中でやっと見つかったのは、敷金なしという、古い1LDKの借家でした。それでも私は生まれてくる子供のために、できるだけ清潔に、居心地よい家を作ろうと引っ越し前から家の掃除を始めました。

また、当時は、前夫も頑張って仕事をしてくれていましたが、これから生まれてくる子供のことを考えると、前夫の収入だけでは心元ありません。私も仕事を始めないと・・・と思い、コンビニで求人情報誌を買ってきて、あちこち仕事に当たってみました。

しかし大きくなっていくお腹を抱えていては、どこも正社員として雇ってくれるところはなく、パートでさえ敬遠され、面接を受けにいっても、肩を落として家に帰ってくる日々が続きました。お腹はまだ目立つほどではなかったので、妊娠していることを隠していれば、仕事に就けたのかもしれません。しかし私はいくら仕事が欲しくても、それはできませんでした。そうして仕事を得ても、ゆくゆくは辞めていかなければならないので、迷惑をかけてしまうことになるからです。

仕方がなく、最終的に家でできる在宅の仕事を探してきました。それはデータ入力の仕事で、会社から定期的に資料をもらい、それを規定に従って黙々と入力していく・・・というものでした。しかし、やはり外に働きにでるよりも単価は低く、一か月頑張ってやっても、数万円でした。それでもこれをやったら、電気代が支払える、一週分の食費になると、毎日頑張ってコツコツとタイプを続けました。

しかし、そのデータ入力の仕事が、のちに今の主人を引き寄せることになったのは、その時はまったく分からないことでした。

その後、男の子が無事に生まれてきました。そのころは主人の暴力も一時おさまっていて、私は夢で描いていた「暖かい家族」を束の間、経験したのでした。

阪神大震災に見舞われる

その朝、突き上げるような振動で目が覚めました。一瞬、何が起こったのかわからなかったのですが、続いての激しい横揺れに、地震だということが分かりました。

停電になった部屋は、冬のまだ日が明ける前ということもあり、真っ暗で何も見えません。それでも私は飛び起きてきた前夫と一緒に、手探りで状況を把握しようとしました。

余震が続いていたので、家の中にいることに危険を感じ、とりあえず当時1歳の長男を抱えて外に出ました。すると、私たちの家とお隣にある銭湯の間の空地に、その銭湯の煙突が横倒れになっているのがおぼろげに見えました。

空が白んできて、少しずつ状況が見えるようになってきました。私たちは家に戻り、どんな状況になっているかを確認しました。すると、ダイニングの食器棚は倒れ、食器はほとんどが割れていました。居間のテレビも、テレビ台から床に転げ落ちていました。何よりも怖かったのが、私と長男の寝ていた布団のすぐ上に、ぎっしりと本の入った本棚が倒れていたのを見つけたときです。もし私たちがもう少し上に寝ていたら、本棚は私たちの頭を直撃していたことでしょう。

そしてまた、屋根は瓦が半分落ちてぽっかりと穴が開き、夜空が見えていました。

その時、外から悲鳴とも歓声ともつかない声が聞こえました。急いで外に飛び出してみると、お隣の銭湯のご夫婦の娘さんが、灰とすすだらけになった姿で、家から出てきたところでした。何と彼女は銭湯の煙突が直撃した部屋で寝ていたそうで、ご夫婦はもうだめだと思っていたそうです。ご夫婦は娘さんと抱き合って、その場にへたり込んで号泣されていました。

私たちもその姿を見て、まず生きていたことに感謝しました。まだまだショック状態でしたが、ともあれ、家族が皆、ケガもなく無事だったのです。

私たちは半壊した家には住めないと、とりあえずの衣服や毛布、子供のミルクやおしめをかき集め、バンに積み、私の実家に向かいました。不思議なことに、実家はほとんど何の被害もなく、普通通りに店を開けていたのです。私は母に店の二階の物置きでしばらく寝泊りさせてほしいと頼みました。物置きとは言っても、板張りできれいな作りだったので、ここなら借家が修繕されるまでの数週間、寝泊りできるだろうと思ったのです。

しかし母はそれを許してはくれませんでした。子供が生まれてもなお、前夫との結婚を快く思っておらず、私が駆け落ち同然で結婚したことを許してくれていなかったのです。

仕方がなく、私は次に双子の姉の家を訪ねていきました。しかし姉も当時、二人の子供を抱えて、狭いアパートに暮らしていたので、私たち3人が転がり込んできても、迷惑をかけるばかりだとすぐに悟りました。私たちは、ここにも居場所がないと、仕方がなく借家に戻り、車の中で生活することになりました。

次男の誕生と引っ越し

その後、余震が収まってくるにつれて、家の中にまた入って生活をするようになりました。やはり車の中では、夜は寒いし、食事を作ったりするときは、台所に入らないといけません。そういう不便さから、私たちは最初は数十分、子供のミルクを作るときだけ、洗い物をするときだけ、そして1時間、夕食を作るときだけ、お風呂に入るときだけ、というふうに少しずつ家の中での時間を増やしていきました。とは言っても、余震がまた、いつなんどき起こるかわからないので、家に入るときは毎回、びくびくしていました。

地震から数日後、私たちの家に市から職員が来て、屋根に青いビニールシートが掛けてくださいました。依然として屋根には穴が開いたままでしたが、職員の方いわく、神戸など、被害が大きいところ中心に業者が皆出向いているので、今のところはこれで我慢してくださいということでした。ある時、大雨でそのビニールシートも役に立たず、滝のように雨水が家の中に入ってきたこともありました。

しかし神戸で家を失った方たちのことを考えると、ぜいたくは言えませんでした。半壊しているけれど、とりあえず住む家がある。水やガス、電気も使える。それだけでもありがたいと思いました。しかし震災があってから、地震に対する恐怖がトラウマになってしまったのか、夜にろくろく寝ることができなくなってしまいました。眠っても、眠りが浅いのか、少しの物音でも飛び起きてしまうようになっていました。

そんな中、次男が生まれました。次男も長男と同じく、ひどい難産でした。長男は予定日を2週間すぎても生まれる気配がなかったため、急遽、陣痛促進剤を使っての出産となりました。そして次男も、また予定日を2週間すぎても生まれる気配がなく、最終的には無理に破水させて生まれたのでした。二人とも、ものすごい痛みを伴う出産で、その痛みで気を失い、でもまた鋭い痛みで我に返る・・・という繰り返しの中での出産でした。

結局、その借家が取り壊されることになったのは、次男が3か月になったころでした。私たちは大家さんから事前にその知らせを受け、次に移るアパートに目星をつけ、契約を済ませていました。

次のところは、新興住宅地で、新築のアパートでした。山を切り崩したところに立ち始めたアパートの一つで、周りには何もないけれど、新築ということだけで、私にはとても嬉しく、大きな安心感がありました。双子の姉の住んでいたアパートも新築だったのですが、やはりほとんど地震の被害がなかったということで、私たちの住んでいたのが古い家だったせいで、被害も大きかったのではないか・・・と思っていたからです。

また当時、1歳とゼロ歳の子供2人と一緒に暮らすのに、古い家だと衛生面でも不安がありました。そういう意味でも、新築のアパートに引っ越せるというのは、とてもありがたいことでした。

しかしそのころ、また前夫の暴力が悪化し始めていました。仕事の愚痴が増え、会社でも家でも休まるところがない、ストレスだらけだ、と言い、そのイライラを私に暴力をふるうことで発散させていたのです。

「あなたの子供は障害児です」

そのころ、私は在宅の仕事を切り上げ、フルタイムで会社員として働いていました。2人の子供を出産し終え、その後プイっと仕事を辞めてしまった前夫が次の仕事を始めるまで、経済的な余裕がなかったからです。私は子供たちを毎日、市のゼロ歳から預かってくれる乳児園に預けて、その足で会社に向かっていました。

そんな中、保育園の先生から、子供の様子について、気にかかることがあるのですが・・・という連絡をもらうようになりました。しかも長男、次男ともに、ということなのです。先生と面談し、どういうことなのかと状況を聞いてみると、長男は落ち着きがなく、動き回ってばかりいる。そして反面、次男は、いつもおとなしく、ほとんど動かずぼーっとしている、ということでした。

しかしまだ小さすぎるということもあり、その時は様子を見ていきましょうということになりました。

 翌年、長男は2歳に、次男は1歳になりました。それぞれ2歳児検診、1歳児検診のときに、担当の先生に何か問題はないですか、と聞かれた際、以前、乳児園でこういったことを言われました、そしてその状態は、今も続いていますということを伝えました。すると、その先生が、児童精神科の先生を紹介してくださいました。

児童精神科の先生は、しばらくの間、施設内の遊技場で遊ぶ長男と次男を見守っていました。自由に遊ばせる中で、子供の状態を見たいということでした。そしてしばらくした後、先生の診断は、「保育園の報告書とも照らし合わせての結果、長男さんは注意欠陥多動症と思われます。そして次男さんはまだはっきりとは言いきれませんが、自閉症および学習障害の症状が出ています。」ということでした。

そして先生は、続けてこう言われました。「注意欠陥多動症も、自閉症も、脳の障害です。今後の成長において、親子ともに辛い場面が出てくるでしょう。でも、それに対する取り組みも進んできています。一緒に頑張っていきましょう。」と言われました。

その後、子どもたちは、定期的に診療を受けることになりました。また保育園も、障害児保育のある特別な園に通い始めました。そして子供たちがそれぞれ4歳、3歳になったころ、先生から投薬を勧められました。しかし私自身は、いろいろと調べてみた中で、薬に頼る療法に関しては懐疑的でした。実際に投薬している子供さんを持つ母親とも話す機会があり、その子供さんが、状態は安定したけれど、覇気がなくなって、子供らしくなくなってしまった・・・という話も聞いていたからです。ましてやまだ幼児の子供たちです。投薬はしたくないという強い思いがありました。

そしてそのころには、保育園からよく呼び出しが入るようになっていました。それは長男がクラスのお友達をいきなり叩いた、おもちゃを投げつけた、というものや、次男がプールでウンチをした、物置の後ろの隙間に入ってしまって出てこない、というものでした。

私はそのたびに、会社を早退し、保育園に直行して状況を聞き、親御さんに謝りに行かなければなりませんでした。それが重なると、いくら私の状況を理解してくれている会社とはいえ、懸念を示すようになってきました。そうしてしばらくした後、これ以上は迷惑をかけれないと、私のほうから会社に辞表を出しました。私自身も、家と保育園、病院、親御さんの家と行き来する中で疲れ切ってしまい、とても会社で働けるだけの体力も気力もなかったのです。

また保育園からも、毎年のように「来年はお宅のお子さんを預かれません」という通知が届き、そのたびに別の保育園を転々としなくてはなりませんでした。

しかし幸い、そのころには前夫も、また仕事を見つけて、正社員として働いてくれていました。私は在宅での仕事に戻る決心をし、子供の障害と向き合っていく決心をしました。

暴力に耐える日々

家で子供と過ごせる時間が多くなったのは良かったものの、やはり前夫からの暴力は止むことはありませんでした。私が会社を辞め、家にいるようになってから、自分が一家を支えているんだという気持ちが大きくなったのか、少し気に入らないことがあると、すぐに暴力をふるうようになりました。

同じアパートの住民が見かねて警察に通報し、巡査が訪れたのも2度や3度ではありませんでした。ある時は、私が意識を失って床に倒れていたのを発見したお隣の奥さんが、救急車を呼んでくれたこともありました。

サンドバッグのように拳で顔面や体のあちこちを殴られ、蹴られ、割れた食器で、頭や首が切れたこともありました。歯が折られ、あばら骨が折れたこともありました。目がまるでマンガで描かれているように赤黒くなり、腫れあがって、見えなくなったときは、失明したかとぞっとしました。鏡で見ると、目から血の涙が流れていました。

それでも、私にとっては、離婚は考えられないことでした。そんな状態でありながら、なおも「暖かい家庭」にしがみついていたのです。また、前夫も、暴力をふるった後は、涙を流して私に謝り、もう暴力は二度と振るわないと約束するのです。そしてその後はしばらく、とても優しくなるのです。そういう彼を見て、私も心をほだされて、また一緒にやっていける、私たちは大丈夫、と思うのでした。

しかし、その後に起こったあることをきっかけに、私は目を覚ましました。そして私がしがみついていたその「暖かい家庭」という虚像にケリをつけたのです。

その後、私は前夫と別居をへて離婚し、当時知り合ったアメリカ人と再婚することになります。そのときのいきさつは、こちらのブログに書いていますので、合わせて読んでいただけたらと思います。

 

プロフィール⑥に続く

私のプロフィール①⇒何もかも人と違っていた私の半生

私のプロフィール②⇒不思議な世界に住んでいた幼少時代

私のプロフィール③⇒「火付け(パイロキネシス)」と言われた青年期

私のプロフィール④⇒英語と海外生活と最初の結婚

私のプロフィール⑥⇒アメリカでの人生、再スタート!

私のセッションについてはこちら⇒実際の生活に役立つセッション

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